第1のことば
ビスミッラーの価値
- ビスミッラーの重要性を愉快な寓話で説明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
وَ بِهِ نَسْتَعِينُ 31
اَلْحَمْدُ ِللهِ رَبِّ الْعَالَمِينَ وَ الصَّلاَةُ وَ السَّلاَمُ عَلَى سَيِّدِنَا مُحَمَّدٍ
وَ عَلَى اَلِهِ وَ صَحْبِهِ اَجْمَعِينَ 32
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて
「そして彼にこそ我々は助けを求める」
「全ての世界の主である、アッラーに讃えあれ、指導者ムハンマドと、彼の全ての家族と教友達に祝福と平安がありますように。」
ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム・#24904;悲深い慈愛遍くアッラ-の御名において・#12392;言う言葉は全ての慈善のはじまり、源である。私たちは何をする前にもその言葉で始める。我が魂よ、あなたも知っておくがいい。その神聖な言葉がイスラムの印でもあり、全被創造物が持っている言葉でもある。
ビスミッラ-こそがいかに偉大であり、尽きることのない力であり、終わることのない豊かさでもあることを次の寓話によっても理解できるだろう。
かつて、アラビアの砂漠を旅する旅人は、ある部族の長の名前と共に旅をした。それによって庇護されねば、邪悪な者の害を避け旅の必需品を賄うこともできなかった。旅人にとっては数え切れないほどの敵や必要な物があるのだから、1人旅ではかわいそうな状況に陥るだろう。
ある日、2人の旅人がアラビアの砂漠に出て行った。その1人は謙遜なタイプで、もう1人はうぬぼれ強いタイプだった。謙遜な方はある長の名前をとり庇護下に入ったが、うぬぼれ強い方はそうしなかった。長の名前をとった旅人は安全な旅を過ごした。泥棒に出会うと彼はいつも「私はこれこれの長の名前をちゃんととっているものです」と言いそのため、泥棒は彼を苦しめることなく去った。彼はどこのテントに入っても、その名前のおかげで、敬意を払われた。一方、不遜なもう1人の男は、惨めさそのもので旅中にいつも、言葉で言い表せないほどひどい目に会うばかりであり、恐怖で全身が震えながらとうとう乞食をするまでにおちる惨めな状況になった。
さあ、私の不遜な欲望よ。あなたはその旅人で、この世はその砂漠のようなものだ。あなたの弱さや迷いは際限を知らない。あなたの要求もあなたがさらされる危険も数え切れない。そうであるのだから、この広い世界の永遠の創造主・正真正銘の王の美名を唱えよう。そうしないとあなたは、この世の無限の被創造物に頭を下げ、あらゆる出来事におびえて震えることになろう。
この言葉が尽きることのない神聖な源で、この言葉を意味を理解して唱えれば、無限に弱く貧しいあなたを全知全能の慈悲深いアッラ-につなげ、あなたのその無力さこそがアッラーの恩恵を受ける対象になる。アッラ-の名をとり、その庇護下に入ってからのみ行動する者は、軍隊に入り国家と法の名の下で、何者をも恐れることなくやることを全部どんなに難しくても抵抗してやれる者のようだ。
最初のところでも触れたが、全ての被創造物は無言で「ビスミッラ-」を唱えている。疑問のあるものには説明しよう。
例えば、たった1人の男はある町に行き、そこの人たちを皆どこか別のところに移動させ強制で働かせたとしたら、それを目にした者がよく分かる事実がある。その事実とは、その男は自分の名前と力に於いてそういうことができるのではなく、その人が兵隊で、国家あるいは国王という長の力でやっているということである。
この例にあるようなことが自然界にもしばしば起っている。例えば、小さな種の中から巨大な樹木が出てきて、その種が山のように大きな物を持ち上げるのは全能者アッラ-の力に基づいた現象であり、その他の創造物もアッラ-の名前に於いて行動している。したがって、この世の中の樹木は全部ビスミッラ-を唱え、慈愛遍き方の恩恵である色々な果物などをその枝につけて我々人間に食べさせてくれる。アッラ-の恩恵を我々に持ち運んでくれる。又、全ての耕地はビスミッラ-を唱え、全知全能のお方の力に支えられて、同じ土の中で多様な種類のおいしい農作物が作られる。牛・ラクダ・羊などのそのお一匹一匹がビスミッラ-を唱えているから、そのからだの中で、一番美味しくて、清潔な生命の水のような飲み物が作られる。その動物達はアッラ-の名に於いてのみ、人体に数え切れないほどの効能を持つ最も繊細で純粋な飲み物を私たちに与える。全ての植物、草の葉、根っこや茎もまたビスミッラーを唱え、その草の絹のように柔らかい根や繊維は「アッラーの御名において」と唱え、そして堅い岩や土を貫いて中に進む。慈悲者の御名、アッラーの御名を唱えて、全てのものはアッラーの御名と共に成される。
空に木の枝が伸びること、硬い岩や土の中をその根が妨げられずに広がること、地中でそれが自然に増殖すること、激しい暑さにも関わらず水蒸気を保つその繊細な緑の葉−これら全ては自然主義者に浴びせられた強烈な一打のような現実感を作り出す。正真正銘の王のアッラ-の力に目を向けようとしない彼らの目にこれらの現象を突き刺すように見せこう伝える:「あなたたちの作った自然主義の基本を成す強さや暑さでさえアッラ-の命令に沿った役割に従っているのである。植物の根の柔らかい繊維のそれぞれが、ムーサー(モーセ)(彼の上に平安あれ)の杖のように
فَقُلْنَا اضْرِبْ بِعَصَاكَ الْحَجَرَ [33] 「おおムーサー(モーセ)よ、あなたの杖で岩を打て」の話句の命令を守り、岩を貫くことのこれが理由である。同じように全ての繊細で紙のように薄い葉が、イブラーヒーム(アブラハム)(彼の上に平安あれ)の四肢の一つのように、激しい熱の挑戦を受けたときには、
يَا نَارُ كُونِى بَرْدًا وَ سَلاَمًا [34]「火よ、冷たくなれ」の章句を唱える。
従って、全てのものは本質的・本能的にビスミッラーを唱えており、アッラーの恵みをアッラーの御名において我々に渡している。そうであればこそ我々もビスミッラーを言うべきであり、アッラーの御名において与え、アッラーの御名において取るべきである。我々は神の御名において与えない思慮のない人間からは、なにも受け取らない方がよい。
質問:我々は何か物を買うときに代価を与える。であるなら全て全き無から作り出した創造主アッラ-はその恩恵に対して我々何を代価として望んでいるか。
答え:私たちが享受する素晴らしい恵みや品物を真に授ける者は、我々につぎの3つのことを対価として求め給う。忘れないこと、感謝すること、熟考することである。
あらゆることの始めにビスミッラーを言うことは、アッラーを忘れないための方法であり、あらゆることの終わりにアルハムドリッラー(アッラーに賞賛と感謝あれ)を言うことは、感謝することの方法である。アッラーを熟考するとは、常にアッラーの恩恵に注意深くあり、我々が全てのことに関して永遠に懇願されるものの力の奇蹟として、あるいはアッラーの恵みによる贈り物として受け取っている素晴らしく、精巧な恵みについて考えることである。もしあなたが贈り物の真の送り主に全く気がつかず、王からの高価な贈り物を運んできた貧しい人の手に接吻しなければならないとしたならば、それはなんと馬鹿げたことだろうか。恵みの真の授け主を忘れているのに、目に見える授け主を讃え愛することは、1000倍も悪い愚行である。
おお魂よ。もし君がそのような愚行を避けたいならば、アッラーの御名において与え、アッラーの御名において受け取れ。アッラーの御名において始め、まさにその終わりまで、アッラーの御名において行え。これこそがあなたを満足させるだろう。
第2のことば
安らぎへの道
- イーマン(信仰)が尽きることのない宝物であることを愉快な寓話で証明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
اَلَّذِينَ يُؤْمِنُونَ بِالْغَيْبِ [35]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「彼ら(主を畏れる者たち)は幽玄界を信じる」
アッラーを信じると言うことはいかに幸せであって、いかに安楽なことであるかということを次の寓話を聞けばわかる。
ある日、二人の男が楽しみと仕事をかねて旅に出た。うぬぼれの人は、ある方向に向かい、もう一方の神に仕えた人は別の方向へ向かった。
うぬぼれの人は、わがままでかつ悲観的であったために、不道徳に見える町に入ることになる。そこではどこを見ても、貧しくて希望のない人々が、いじめで苦しんでいる。彼はどこに行こうと同じ悲哀な風景を目にする。その土地全体が悲嘆な状況にあるかのように見える。彼はこういう悲哀なことを考えたくないために酔っ払うほかないと決心する。というのも皆、彼にとって敵や見知らぬ人のように見える。そしてそこら中にある死体や泣いている孤児などの情景をみて、彼の心は苦しみの中に追い込まれる。
もう一方の神に仕えた人は、心身深くてよい性格を持っていたために大変すばらしい町に行くことになる。この善良な男はその町で万人の祝祭を見る。楽しそうな人々の姿は魅力的な雰囲気を作り皆彼にとって親友や親戚のように見える。前の不幸な人の悲嘆な姿に対してこの幸福な人は皆の喜びと自分自身の喜びで幸せになる。また素晴らしい仕事が出来、アッラーに感謝を述べる。
彼は帰ってきて、前の男に出会い、その男の事情がわかった後彼にこういった。 「あなたはおかしくなってしまった。あなたの心の中にある醜さが表面に反映しているに違いない。だから、あなたは笑うことにすすり泣き、義務からの解放を略奪と思いこんでいる。良識を取り戻し、心を清めれば、これらの不幸な垂れ幕が目から取り除かれ、真実を知るだろう。でなければ、どれだけ公正で、心の優しい支配者のこの文明化し繁栄した町もあなたの見たり思ったりしたようではあり得ない。」
するとこの男は良識を取り戻して後悔し、「私は飲んでいた酒のせいで正気を失っていた、ありがとう。私をそんなひどい状態から助けてくれたことでアッラーが君に喜び給うように」と言った。
おお我がネフス(魂)よ。前者は、不信仰者または邪悪な人を象徴することを理解しなさい。彼にとってこの世界は悲嘆を意味する。生き物は皆離別や消滅のせいで泣いている孤児を意味する。彼にとって人間と動物は死によって消滅させられる野蛮なものだ。海や山のような巨大な集合体は彼の目に、魂のない恐ろしい死体のように見える。このような苦悩や不安は不信仰や不義を原因とし彼に精神的な苦痛を与える。
しかしもう一方の男は信仰者である。彼は全能なるアッラー存在を信じ、断言する。彼の見方では、この世は人々がアッラーをたたえ、人類と動物の心身の鍛練の場、そして試験会場のようなものである。また人間と動物の死はこの世からの解放である。人生という役目を終えたものは次の役目のある者に場所を空け、働いてもらうためにこの短期間の現世から満足の気持ちで苦労のない来世へ行く。人間や動物の全ての誕生は軍隊に入ることや仕事にかかはることを意味する。全ての生き物は割り当てられた仕事に喜んでいる将校や公務員のようである。聞こえている音は、仕事にかかる時に言うとなえごとや仕事を終えた時の感謝の気持ちと開放された気持、または働く幸せを表現する言葉である。すべての被創造物は信仰者の目では従順な僕べであり、親切な人であり、魅力のあるものである。このようなたくさんの神聖なる真実は彼の信仰に基づいている。
信仰とは天国のスィドラの木の種のような物が潜んでいて、不信仰は地獄にあるキョウチクトウの木の種のような物が潜んでいる。
安心と心の開放はイスラームと信仰にある。故に我々は、
اَلْحَمْدُ ِللهِ عَلَى دِينِ اْلاِسْلاَمِ وَ كَمَالِ اْلاِيمَانِ [36]
「イスラームの宗教と信仰の完璧さのために、アッラーに讃えあれ」と言って常にアッラーに感謝を捧げるべきである。
第3のことば
正しい道を選ぶ
―アッラーに従うことはいかに益の多大な取り引きであることを合理的な寓話で説明する―
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
يَآ اَيُّهَا النَّاسُ اعْبُدُوا [37]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「人々よ、(あなたがた,またあなたがた以前の者を創られた)主に仕えなさい」
アッラーに付き従うこと(イバーダ)がいかに大きな商売と幸福を、アッラーに付き従わないことと道楽がどんな大きな損そして滅亡に至るかを、知りたいならこの遇話を聞きなさい。
かつて、ある二人の兵士が遠い町へ向かうよう命令を受け一緒に出発した。しばらくして、その道が二つに別れた。ある賢者がそこにいて、彼らにこう言った。「この右の道は危険性がなく、旅人の9割は大きな利益を得、旅も楽である。左の道なら利益どころか危険があり、9割の旅人は被害を受ける。両方の道は同じ距離である。しかしこの二つの道を進むにはそれぞれに違った条件がある。左の方は秩序がなく管理もされていないが荷物も武器もなしに行けるというったやすさがある。右の道は国の管理下にあるが、栄養のあるたくさんの食料をつめた、重さが20キロもある荷物をもち、また誰にでも勝てるかなり重い強力な武器を身に付けなければならない。」
その二人の兵士は、賢者の言葉を聞いた後、心が良い兵士は右に向かう。彼はかなり重い荷物を肩に乗せる。しかし同時に彼の心は、大変な不安と旅の恐怖をまぬがれる。心の悪い兵士は兵役を捨て、秩序に従いたくもなく左に向かう。彼の体は荷物の重さから解放されるが、道すがら心は耐えがたいほどの不安と、無限な恐怖の下でつぶれる。乞食になり、すべての出来事に対して慄く。そのうち目的地に到着するがそこでは、反逆者や逃亡者として罰せられる。
兵役の好きな、荷物と武器を持っていった右の道を行く兵士は、だれの世話も受けることなく、だれに対しても恐怖のない心と良心とともに進む。そのうち、行き先の町に入る。そこでは、自分の義務をきちんと果たした、名誉のある兵士にふさわしい賞が与えられる。
さて、我儘で物欲的な我がネフス(魂)よ!注意しなさい。その二人の兵士、一人はアッラーの敬虔な僕べを象徴するのに対し、もう一人は反抗的で、自らの気まぐれに従う者を象徴している。その道は人生の道で、霊魂の世界から来て、カブル(黄泉)を通じて、来世へと続く。その荷物と武器は、イバーダ(アッラーに付従うこと)とアッラーを敬うこと意味する。イバーダは一見とても難しいことのように思える。しかし真実は説明のできないほどのやすらぎとやりやすさがある。なぜならば、イバーダを持つ者はその言動の中で、
اَشْهَدُ اَنْ لآَ اِلَهَ اِلاَّ اللهُ [38]
―アシュハドゥ アン ラーイラヘ イッラッラー―「私は、アッラー以外に神はないと証言します」という。つまり、「創造主と供給者はアッラーしか存在しない。良いことであれ悪いことであれ、全てはアッラーの贈り物である。アッラーは絶対的な存在であり、無駄なことをされない。慈悲あまねき存在であり、アッラーの慈愛と恵み深さは有り余るほどである」と確信しているので、信仰ある兵士はあらゆる事態においてアッラーの豊かな慈悲の扉を見つけ、祈りながら扉をたたく。そして、全てのものがアッラーの指示に従うことを目にする。彼はアッラーの庇護に入り、アッラーを信用し完全に服従して、全ての悪い出来事から守ってもらう。信仰は彼に完全な安心感を与える。
そう、あらゆる良心的な行為は無論のこと、勇気の源でさえ信仰とイバーダにある。あらゆる悪い行為は無論、恐れることの源は信仰からの逸脱である。例え地球が爆弾となり爆発しても、恐らく完全信仰を持つ者を脅かすことはできない。もしかすると、アッラーのすばらしい力を楽しみながら驚きの目をもって見る。それに対して、有名で教養があり理性をもつ信仰のない哲学者は、空に流れ星を見ると、恐怖に震える。「もしかしたら、この流れ星は地球にぶつかるのではないか」といい、心配する。昔、このような流れ星のせいでアメリカは震えた。多くの人がその恐怖から夜間家の外に出た。
人間は、数え切れないほどの物を必要としている。だが人間は、手元不如意の存在である。人生の中で無限な災難を受けつつも、自身に対し自ら何もできることはない・#12381;の資本や自らが成すことのできる範囲は自らの手の届くところまでしかない。しかし、希望、願い、苦悩と災難は、視野と想像が許す限りどこまでも広がるほど広大なものである。これだけ無力で弱い、貧乏で苦しむ人間の魂にイバーダ、人事尽くして天命を待つ事、信仰、自身の全てをアッラーに委ねる事がいかに大きな利益、幸せと恵みだということを完全に盲目ではない人は見て、理解する。当然、十分の一の割合でも、害のある道より害のない道を選ぶ。しかし、問題のイバーダの道は、勿論害がなく、十分の九の割合で永遠の幸せという宝物がある。不信仰者と逸脱者の道は、彼ら自身も告白しているように、無益であり、十分の九の割合で永遠の苦悩に陥ることは様々な目撃者たちの証言によって確かである。
要するに来世の幸せも、この世の幸せもイバーダとアッラーの僕べになることによって叶えられる。従って、私達も「アッラーの道における従順と成功のため、アッラーに讃えあれ」と言わなければならない。そしてムスリムであることをアッラーに感謝するべきである。
第4のことば
命じられた礼拝の価値
- サラートの重要性とサラートをしない人が莫大な損をするということを愉快な寓話で説明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
اَلصَّلاَةُ عِمَادُ الدِّينِ [39]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「規定された礼拝は、宗教の柱である。」
サラートは、どれくらい価値があって、どれくらい大切であり、どれくらい安く、そして少量の費用で手に入るものなのか、またサラートをしない人は、いかに無分別なのかを明白に理解したければ次の寓話を見なさい。
ある時有力な支配者が二人の召使いに、それぞれ24枚の金貨を渡して2ヶ月間分かれた、砂漠の向こうにある素敵な農場に遣わそうと、彼らにこう言った。「そのお金を交通費や向こうの家に必要なものに使いなさい。ここから1日の所に駅がある。そこでタクシーや、船、列車と飛行機があって、持ち合わせの金額によってその乗り物に乗れる。」
この二人の召使いは支配者の言葉を念頭において旅に出る。その一人は幸福だったので、駅までの道のりで、お金を少ししか使わなかった。しかも彼はその支出したお金の中で主人が喜ぶようなすばらしい仕事をし、持っていたお金が1000倍の利益をもたらした。もう一人の召使いは不良だったために、駅に着くまで23枚の金貨をギャンブルや娯楽で浪費し、金貨が1枚しか残らなかった。幸せな召使いが彼にこう言った。「この長いたびで乗り物にも乗れなくなったり、食べ物を買えなくならないように残ったその1枚の金貨で切符を買いなさい。1枚の金貨では飛行機に乗ることはできないけれど、我々の主人は寛大であるし、おそらく彼はあなたに哀れみをかけ、あなたの誤りを許すでしょう。そしてあなたも飛行機に乗れて、一日でその素敵な農場に着くこことができる。そうしないと、一人で2ヶ月の砂漠を空腹のまま歩いて横切らなければならなくなる。」
それにもかかわらず頑固で不良な召使いが、価値ある宝箱の鍵のようなその1枚の金貨で切符を買わずに、はかない娯楽に使ったとしたら、彼がしたことはいかに愚かなことであるかは一目瞭然である。
おおサラートをしない人、そしてサラートが嫌いなわがネフス(魂)よ、その支配者は我々の創造主を意味する。その二人の召し使いの一人は信心深く、サラートを自ら進んでする人を意味し、もう一人は軽率でサラートをしない人を意味する。24枚の金貨は24時間の一日の人生を、その農場は天国を、その駅は墓を、その旅自体は審判の日までの人生の道のりや来世につながる人間の旅である。その人の信仰の強さやレベルによって皆それぞれのペースでその砂漠を横切る。光のように千年の道のりを一日で横切る人もあれば幻想のように5万年の道のりを一日で横切る人もある。クルアーンはこのことを二つのアーヤで言及している。
又、その切符はサラートである。わずか一時間あれば5回のサラートとウドゥー(小浄)に十分である。23時間を長くないこの世のために費やす人、あるいは永遠のあの世のためにたった一時間をも費やさない人は、どれだけの損をし、どれだけ自分自身に残酷で、どれだけ馬鹿げていることだろう。というのも、千人の人が参加している宝くじに財産の半分をかけることは合理的であるのならば―それでも当たる可能性は千人に一人だが―財産の24分の1を、当たる確率が99パーセントもある永久の宝にかけないことは非合理的であるからである。
サラートをすることによって心や魂が落ち着く。それに、サラートは身体的にもつらいものではない、しかもサラートをする人の普段の生活する上での行為は、意志をしっかりもっていればイバーダ(アッラーに付従うこと)になる。こうして人生という資金で来世を自分のものにすることができる。換言すれば、このはかない人生が永遠のものになる。
第5のことば
信仰者のための正しい
訓練
- 礼拝することと大きい罪を避けることは人間の真の義務であることを寓話で説明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
اِنَّ اللهَ مَعَ الَّذِينَ اتَّقَوْا وَالَّذِينَ هُمْ مُحْسِنُونَ [40]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「本当にアッラーは,主を畏れる者,善い行いをする者と共におられる。」
礼拝をすることや大きな罪を避けることは、どれほどの人間の義務であるか、人間の性質に適切しているかを知りたければ、以下の話を参考にしなさい。戦争中、ある部隊に二人兵士がいる。1人は教養のある、良心的な、もう1人は未熟で自己の欲望の奴隷である。良心的な兵士は訓練や戦に注意を払い、食料や軍隊に必要なものに関して不安を抱かない。なぜならば、食料や軍需用品の共給、病気になったときに適切な治療をすることが政府の義務であると分かっている。
彼の本業は国のために訓練に参加することや国のために戦うことだと知っている。また食糧の供給などの仕事にも参加し、鍋などを洗うといった台所仕事の一部も行う。
- 「何をしているのか」と聞かれると、
- 「国の雑用の一部を行っている」と答える。自分の生活費のために働いているとは言わない。
もう1人の、経験がなく自分に甘い兵士は正規の訓練や戦争に参加しない。「それは政府の問題である、私の仕事ではない、と言う。自分の生活費のみを考えて、本業をさぼり、市場や買物に行く。ある日、教養のある良心的な兵士は彼に言った。
「兄弟よ。君の主な仕事は戦いに備えて訓練し、そして国のために戦うことだ。君はそのためにここにいる訳だ。王を信頼しなさい。王は食料が必要なときに、君から離れたりしない。食料と手当を与えることは王の責任である。そして君には自分の支給品の手はずを整える能力はない。しかも今は戦争中だから君は恐らく反乱者か逃亡者であるとして責められ、懲罰を受けるだろう。」
確かに2つの仕事があることは、間違いない。ひとつは王の責任である仕事。もうひとつは我々の仕事である。王は戦争に必要なものを供給する。我々は、訓練を受け戦う。もし経験がない兵士が、友人が説明しようとしたことを気にしないと、どれほど危ない状況になるかをわかるだろう。
おお、私の怠惰なネフス(魂)よ。その危険な戦場は、混乱したこの世の生活を象徴している。いくつかの部隊に分けられた軍隊は、人間の社会の象徴である。その部隊は今世紀のイスラーム社会を象徴する。2人の兵士に関して、1人は信仰深くまじめななムスリムで、罪を犯さないために、自己および悪魔と戦う良いムスリムである。もう1人は、我々に絶え間なく様々なものを授けて下さるアッラーを無視し、多くの罪を犯し、まじめに祈りをしない人である。訓練は、礼拝やその他祈りの象徴である。戦争は悪魔に対して心や精神を守り、地獄に落ちないようにすることの象徴である。言及された2つの義務のひとつ、生命の創造と存続は創造者=アッラーのみの責任である。別のひとつは我々の義務でアッラーを完全に信頼することである。最も輝かしい芸術的な奇蹟である生命を創り、食料を与えその生命を支えることができる存在はアッラーだけである。それを証明することとして最も弱く単純な生物は、魚や果物にいる虫など最も良いものを食べられる生き物であることである。また赤ん坊や動物の子といった、最も力のない、生き物は最も良い食料を得ることができることである。
食料を得る機会は、力や食性の問題ではなく、弱さによって生ずる問題であることを理解するために、魚とキツネ、赤ん坊と野蛮人、植物と動物を比較することで十分だろう。
生活の為に礼拝をやめる人は話の中のあの兵士に似ているように、自分の任務を無視し、なにも食べられないと恐れて前線から逃れ、市場の中をうろつきまわる。対照的に、礼拝を行った後に大地-最も気前の良い供給者の慈悲の台所-から食料を求めることは立派な祈りの一種である。
さらに、人間がアッラーにイバーダをするために創造されたことを人間の性質や人間の精神的な世界が示している。人間の単なる肉体的な力や、現世の生活に必要な能力に関する限り、人間は小さな雀よりももろい。しかし人間の知識、必要性、願いそして信仰-精神的生活や来世での生活に必要なもの-に関して言えば、人間は全ての生き物の王であり指揮者である。
おお我が魂よ、君が現世を目標とし、そのために働く限り、ツバメほども自らの問題を管理することのできない、ただの兵士になってしまう。しかし、もし来世を目標とし、人生を来世のための準備として考え、それに応じて振る舞えば、動物王国の王や全能なるアッラーに愛され、祈りを唱える僕べ、現世において栄誉を授けられ尊敬されるアッラーの客人になるのである。
さて君には2つの選択肢がある。2つのうちのどちらとも選ぶことができる。慈悲深い中でも最も慈悲深きものに、アッラーの道での成功と導きを求めよ。
第6のことば
最高の取引
- アッラーが私達に預けた命と財産を彼が望ましい方法で使うことはいかに莫大の益があるということを快適な寓話で説明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
اِنَّ اللهَ اشْتَرَى مِنَ اْلمُؤْمِنِينَ اَنْفُسَهُمْ وَاَمْوَالَهُمْ بِاَنَّ لَهُمُ الْجَنَّةَ[41]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「本当にアッラーは,信者たちからその生命と財産を贖われた。」
自分のネフスや財産をアッラーに売り、そしてアッラーの僕べ・兵士になることはどどれだけ利益のある商売で、どれだけ光栄に満した位であるかを理解したいのなら、次の話を聞きなさい。
昔、一人のスルタンが家来の二人に中に工場、機械、馬や武器と言ったような何でもある農場をそれぞれに貸した。しかし、激しい戦争の最中だったため、物は価値を保つことができない。変化するか、無くなるのであった。
スルタンがその二人に一人の副官を送った。副官が運んだ慈悲深い手紙にはこう書いてあった:
- 「持っている信託の土地を私に売りなさい。あなた達の代わりに無駄にならないよう守っておくから。しかも、戦争が終わったらもっと良い状態にして返す。もしも、その土地を自分のものだと思っているのであれば、高い値段を払う。しかも、その機械や工場は私の名で使われることによって、値段が一から千に上がる。全ての利益をあなた達に返す。しかも、あなた達は弱くて貧乏だからそんな大きな仕事の消費を維持することができない。その全ての消費を私が維持する。全ての恩恵をあなた達にあげる。しかも、除隊時まで持っていてもらう。ほら、五つの段階に五倍の利益。
もし、私に売らないのなら、見ている通り誰もが自分の物を守れない。手元から離れて行く。無駄にもなり、高い値段も得られない。しかも、その本来なら高い値段が着く機会などが略奪され、実際の価値を失うのである。しかも、経営と維持の面倒だけが残る。しかも、最初は私が貸してあげた土地だから、それをちゃんと守れなかったから罰される。ほら、五つの段階に五倍の損。
しかも、私に売るということは、私の名で管理することになる。価値のない奴隷より、高尚なスルタンの自由を持つ兵士になる。」
このメッセージを聞いてから、二人の中からしっかりしている方がこう言った:
- 「畏まりました、お売りすることが光栄です、どうも有難う御座いました。」
もう一人は傲慢で、偉そうに形をつけて、まるで永遠にそこに住めるかのように、世の中で起きていることを知らずにこう言った:
- 「いやだ。スルタンって一体何者だい。俺は自分の土地を売って、今の極楽を失うようなことをしない。」
少し時間たったら一番目の人が、誰もが羨ましいと思うような位置に上がった。スルタンの優しさを頂いて宮殿で幸福に過ごしている。もう一人は皆にかわいそうに思われ「自分で選んだ道」だと言われた。何故なら、自分の間違いで幸福と財産を失って、しかも罰を与えられている。
ほら、何でも欲しがる自分。先ほどの例で事実を見なさい。そのスルタンとは過去や未来の神様である。
例の土地、工場や機械とはあなたの身体とその中の命、心、舌などの具体的や非具体的な部分である。
その副官とは預言者ムハンマドである。
その手紙とはクルアーンである。
その激しい戦場とは、このどんどん壊れていく世で誰にもこのことを思わせる:
- どうせ今持っている物が手から離れて無くなるのなら、永遠に続く物と交換は出来ないのか。」と思っている内にクルアーンが答える:
- 「出来る。しかも、五倍の利益で美しくて楽な方法がある。」
- 何でしょう。
- 信託を本当の持ち主に売ること。ほら、その商売の五つの段階に利益がある。
1番目の利益:かりの物は永遠的になる。何故なら、アッラーにあげて、アッラーのために使うこの一時的な人生は永遠に続く。永遠の果物をくれる。そうなると人生の一分一分はまるで種のような役割を果たす。見た目には無くなるが永遠の世界で幸せの花を咲かせる。永遠の世界で綺麗な景色を作る。
2番目の利益:天国のような値段が払われる。
3番目の利益:全ての器官の価値が一から千にあがる。
例えば知恵が一つの道具である。もしも神様に売らないで自分自身のために使ったなら人を困らせるような道具になる。だから二番目の人のように意思を聞ず酔っ払いや楽しみを選ぶ。もし神様に売ってそのために使ったら知恵は魔法の鍵になり、この世にある全ての宝を開ける。それと持ち主に永遠なる幸福をくれる。
例えば、眼は魂が外を覗く窓となる。もし、神様に売らないで自分自身のために使ったなら、一時的な魅力に惑わされ、その眼の奴隷になる。もし、眼を神様に売ってそのために使ったら眼がこの素晴らしい宇宙と全世界を見て神様を理解する。
例えば、味覚を神様のために使わないで自分のために使えば自分が胃袋の奴隷のようになる。
もし、神様に売ったら、神様が創った素晴らしい食べ物を意識し、神様を意識できる。
知恵よ。注意しろ。不吉な道具はどこにあるか。宇宙の鍵はどこか。
眼よ。良く見なさい。欲の奴隷はどこにいるか。神様の図書館の科学者はどこにいるか。
舌よ。よく味わいなさい。胃袋の奴隷はどこにいるか。神様の作ったものを理解する者はどこにいるか・・・とこれらのように他の道具も比べて見れば分かる。信じる者が天国行きで、拒否する者は地獄行きになる。それらが高い価値を得ることは神様のために使うことで出来る。信じない者はそれを自分自身のために使って無駄にする。
4番目の利益:人間は弱い、敵が多い。貧乏である、必要としている物が多い。無力で人生が重い。もしアッラーに従わなかったら心の中で罪悪感を感ずる。苦労の中で酔っ払うか怪物になる。
5番目の利益:全ての器官の礼拝の高い値段が最も必要としているときに、天国の果物として返されるのが分かっている。もしこの五つの段階の有利な商売をやらなければ、利益を失うだけではなくて、五つの段階で損する。
1番目の損:それ程愛していた物や子供または、終わらないと思い込んでいた若さが手元から離れてなくなる。しかし、その苦しみと罪をあなたに残す。
2番目の損:借りていた物をちゃんと返さないと罰される。
3番目の損:その全ての貴重な人間の器官を動物以下に利用して、信託を悪用したことになる。
4番目の損:弱いにも関わらず重い人生の苦労だけをしたことになる。
5番目の損::アッラーを理解し、天国に入れるためにもらった器官を悪用し、地獄に入る。
今、アッラーに売るためにがんばる。一体、そんなに難しいのか、たくさんの人が売るのを避けている。いや。まさか、全然難しくない。許されていることもいっぱいある。許されている行動も十分楽しい。やってはいけない行動をとる必要がない。本当は礼拝なども少なくて簡単なのである。
アッラーの兵士になることは何よりも光栄なことである。仕事は兵士のようにアッラーの名において、アッラーのために行い・#12418;らう時もあげる時もアッラーのために・#35377;されている範囲で行動し、幸せを得て・#22833;敗したら許しを願うべきである。
アッラーよ。我々をお許しを。
アッラーの兵士にしてくれますよう。
信託を返す時まで、ちゃんと守れるよう力を・#12392;祈るべきである。
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[31] お祈りのことば
[32] お祈りのことば
[33]聖クルアーン2:60より 「またムーサーがその民のために,水を求めて祈った時を思い起せ。われは,「あなたの杖で岩を打て。」と言った。するとそこから,12の泉が涌き出て,各支族は,自分の水場を知った。「アッラーから授かった糧を,食べ且つ飲みなさい。堕落して,地上で悪を行ってはならない。」
[34]聖クルアーン21:69より (ネムルード王がイブラーヒーム預言者を火に投げようとした時)われは命令した。「火よ,冷たくなれ。イブラーヒームの上に平安あれ。」
[35]聖クルアーン雌牛章 (アル・バカラ)2:3より
[36] お祈りのことば
[37]聖クルアーン雌牛章 (アル・バカラ)2:21より
[38] イスラームの根本的なことば
[39] ハディース‐預言者ムハメド(彼の上に平和と平安があれ)のことば。Tirmizi Iman 8。
[40]聖クルアーン16:128より
[41]聖クルアーン9:111より